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御霊と守護霊の力

御霊と守護霊の力

<御霊>

世の中には数多くの宗教や思想・考え方があり、それぞれの視点からわたしたちが生きている「この世の世界」と死んだ人間がいく「あの世の世界」を説明されています。

 

先日、わたしたち巳和の光が奈良の大神神社を訪れた際、『大神神社会報「かぎろい」』のなかに、神道の視点からあの世とこの世の関係を分かりやすく解説した文章がありました。

 

そこで、今回、その文章を勝手ながら引用させていただき、わたしたち巳和の光の観点からこの世とあの世の世界、生きている人間と亡くなった人間の関係ついて考えてみます。

 

 

一般的に神道においては(神道のみではないかもしれませんが)、わたしたち人間の身体には肉体とは別に「魂」が宿っていると考えます。

 

その魂を神道では「御霊(みたま)」と呼びます。

 

人間は寿命が尽きて亡くなると、身体はわたしたちが普段生きる【顕界=この世=生身の人間が生きる世界】で葬られ、《身体に宿っていた「御霊」は【幽界=あの世=神様や霊が生きる世界】へと旅立ち》ます。

『大神神社会報「かぎろい」』のなかの文言を拝借しますと、

 

「亡骸はこの顕界で葬られ、身体に宿っていた御霊は根の国・底の国、すなわち幽界へと移っていきます。しかし、顕界への思いが強ければ、御霊の一部がここに残り、ご遺族らが祭ることで、ご遺族らのために御力を発揮することもあります。ですから、お墓やご霊璽やご位牌などを、ご遺族らは丁重に祭られて、ご助力を願うのです。」大神神社「かぎろい」11月号「御霊の用と体」より引用

 

この文言はとても端的に生きている人間と死んだ人間との関係を説明しています。

 

このなかで重要なところは、「顕界への思いが強ければ、御霊の一部がここに残り」「(御霊を)ご遺族らが祭ることで、ご遺族らのために御力を発揮する」というところです。

 

 

というのも、顕界であるこの世への思いが強いとその御霊の一部が幽界であるあの世に行けず、顕界に留まってしまうという状況が生まれます。それを砕けた言葉で言うと、「死んでもあの世に行けていない状態、すなわち幽霊としてこの世をさまよっている状態」ということになります。それを「未練」と呼びます。そして、本来、幽界にいるべき御霊が未練を持って顕界に留まっているということは、生きている人間にさまざまな影響を及ぼす原因となります

 

そこで、御霊のお気持ちを慰めて、あの世である幽界に送り届けてあげる必要があります。

焦点となるのは、亡くなった人間が抱いている顕界への思いです。御霊が抱く「この世への名残・執着」を解消し、この世への「未練」を断ち切ってあげることが大切となります。

 

その行為を巳和の光では「言い分(いいぶん)をお聞きする」と表現しています。

「あなたのおっしゃることは聞き届けました。もうこれからは心配しなくて大丈夫ですよ」

と御霊に納得してもらう必要があります。

 

ご遺族らなどこの世に生きている人間が御霊の言い分を聞くことで、御霊は安心して心穏やかな状態となり、この世への未練が無くなっていきます。

 

そして、御霊が抱く「未練」が無くなることで、御霊は納得してあの世である幽界へと旅立つことができるようになります。

 

<不思議な御力でご遺族を守護する御霊:守護霊>

この世への未練が無くなり、納得した御霊は心置きなく幽界に行くことができます。いわゆる「成仏できた」状態になります。幽界は神様の世界です。

 

亡くなった人間の御霊は神様の世界である幽界に行くことで、人間ではなく神様に近い存在として、ご遺族らを守護する【御力】を得ることができるようになります。

 

いわゆる災厄から守護してくれる霊的なボディガード(守護霊)となってくれるのです。

 

とはいっても、霊的なボディガードである守護霊は神様ほどの力はありません。しかし、顕界に生きている人間にはない「霊的な力」を発揮できるようになります。その霊的な力でこの世に生きている人間を守護してくれるようになります。

 

 

御霊の「言い分」を聞いてあげ、「未練」を解消させてあげることで、御霊はご遺族らを守護する御力を得ることができます。それがご遺族らを災厄から護ることに繋がり、安寧と繁栄へ繋がります。

 

そのためには「言い分」を聞いてあげる必要があります。巳和の光では、神道の作法にて御霊の供養を執り行い、御霊の「言い分」をお聞きしています。

 

以上

三輪山・大神神社での不思議な体験 ① 

奈良三輪山大神神社・葛城一言主神社参拝